LOGIN風呂を済ませると、珠希は「今日は先に休むね」とだけ残して、二階へ上がってしまった。
雪臣は一人、リビングのソファでタブレットを開いていた。画材の通販サイトを閉じ、美術館のホームページを眺める。どれも急ぎの用ではない。あてもなく、女性に喜ばれるクリスマスプレゼントの特集記事を開いては閉じることを繰り返していた。 時計を見ると、十一時を過ぎている。 違和感があった。 ここしばらくの間、夜、ソファに一人でいることはなかった。 風呂を済ませれば、自然と珠希がこのソファで何か話し、雪臣が短く答える。そんな時間をしばらく過ごしてから、二人はそれぞれの部屋へ戻る。 同居を始めたばかりの頃はそわそわしていたが、いつの間にか雪臣にとっては、その時間がないとかえって落ち着かなくなってしまったようだ。 雪臣はタブレットを閉じた。 階段の脇で、椅子式昇降機に腰を下ろす。珠希はもう眠っているだろう。操作ボタンを押すと、椅子がゆっくり動き出した。 杖を頼りに上がるより、ずっと体は楽だった。分かってい風呂を済ませると、珠希は「今日は先に休むね」とだけ残して、二階へ上がってしまった。 雪臣は一人、リビングのソファでタブレットを開いていた。画材の通販サイトを閉じ、美術館のホームページを眺める。どれも急ぎの用ではない。あてもなく、女性に喜ばれるクリスマスプレゼントの特集記事を開いては閉じることを繰り返していた。 時計を見ると、十一時を過ぎている。 違和感があった。 ここしばらくの間、夜、ソファに一人でいることはなかった。 風呂を済ませれば、自然と珠希がこのソファで何か話し、雪臣が短く答える。そんな時間をしばらく過ごしてから、二人はそれぞれの部屋へ戻る。 同居を始めたばかりの頃はそわそわしていたが、いつの間にか雪臣にとっては、その時間がないとかえって落ち着かなくなってしまったようだ。 雪臣はタブレットを閉じた。 階段の脇で、椅子式昇降機に腰を下ろす。珠希はもう眠っているだろう。操作ボタンを押すと、椅子がゆっくり動き出した。 杖を頼りに上がるより、ずっと体は楽だった。分かっていても、珠希の前では使いたくない。この昇降機に座って運ばれる姿を、彼女には見せたくなかった。 二階へ着き、杖をついて立ち上がる。そのとき、珠希の部屋のドアが開いた。 「……雪臣くん」 急に声がして、雪臣は椅子から離れた。珠希はたった今、部屋から出てきたところだ。昇降機に座る姿を見られたわけではない。 「どうした」 「なんか、眠れなくて」 廊下へ出た珠希が、ドアをそっと閉める。 「雪臣くん、まだ起きてたんだね」 「調べものをしていた」 「そっか。遅くまでお疲れさま」 無理に笑っているような珠希の顔を見て、雪臣は昼間の共有ワークスペースを思い出した。目が合っても、彼女は笑わなかった。あのときは、そっとしておく方がいいと思ってその場を離れたが、元気のない彼女を見て、今さら後悔している。 「……タマ。昼間も、何かあったか」 「……え?」 「会社で」 珠希の目が、わずかに大きくなった。 「あぁ。うん……ちょっと、昔のことを思い出して」
タクシーのドアが閉まると、通りを行き交う人々の声が遠のいた。 雪臣は行き先を告げ、座席に身を預ける。上着の襟は整えたはずなのに、直人に胸ぐらを掴まれた感触がまだ残っていた。これほど激しく憤ったことは、数えるほどしかない。 ――俺はお前と違って、ずっとあいつのそばにいたんだ。 それは事実だった。直人は、雪臣が決して届かなかった珠希の隣に、何年もいた。だからこそ、あの男が先ほど吐いた言葉のひとつひとつが、今も許せない。 タクシーの窓に、ぽつりと雨粒がついた。追うように、もう一粒、また一粒。街灯の光が濡れたガラスに滲んでいく。 雪臣は、珠希の右手の薬指でいつも煌めく、ビーズの雪の結晶を思い出していた。 ――これ、直人さんが見つけてくれたの。 入籍前、一緒に暮らし始めて間もない頃。以前一度だけビーズの指輪をなくしたときのことを、彼女は雪臣に話した。あのとき、懐かしむような声を聞いて、雪臣は何も言えなかった。そして今も、言えずにいる。 ◇ ◇ ◇ 大学四年の秋――珠希の右手から、雪の結晶が消えた。 最初に異変を感じたのは、キャンパスの道で珠希とすれ違ったときだった。彼女は片手に資材の入った紙袋を抱え、もう片方の手を開いたまま、足元を確かめるように歩いていた。 そのときは指輪をなくしたとは思い至らなかった。だが翌日も同じ道で何かを探す姿を見て、彼女の手からビーズの指輪が消えていることに気づいた。 大学一年の秋。雪臣の長い恋が始まった日。学食で向かいに座り、ナポリタンを食べていた珠希が、その指輪を一度だけ見せてくれた。幼い頃、母親と一緒に作ったものだと話していた。 ――つけてると、少し嬉しくなれるから。 窓際のテーブル席で、指先でビーズのモチーフを回しながら、彼女は笑っていた。逆光に照らされた黒髪も、誰かを笑顔にできるジュエリーを作りたいと言った声も、はっきり覚えている。 ――あの指輪をなくしたのか……。 その日の卒業制作の指導が終わると、雪臣は珠希が歩いていた道へ引き返した。舗装の上を見渡し、縁石の隙間を確かめる。人が近づくたびに手を止め、通り過ぎるとまた探した。
珠希の姿が、駐車場へ続く通路の向こうへ消えた。その背を見届けてから、雪臣は直人へ向き直る。 直人に名を呼ばれた珠希は、その場から一歩も動けずにいた。雪臣が先に帰るよう告げるまで、まるで出口を見失ったかのように。 先ほど、会社の共有ワークスペースで珠希が目を逸らしたときの顔が、まだ頭から離れない。「はっ。逃げることねぇだろ。雪臣、お前、珠希に何か吹き込んだか?」 直人は薄く笑っていた。「ここで話すつもりはない」「俺だって、こんな場所で揉めたくねぇよ。少し歩け」 直人が先に角を曲がる。雪臣も杖をつき、そのあとを追った。シカクイの館内から漏れていたクリスマス曲が、徐々に遠のいていく。冬の乾いた風がビルの間を吹き抜け、上着の襟元へ入り込んだ。通りを行く人の足音はまばらで、立ち止まる者はいない。 シカクイからいくつかの建物を隔てた路地の奥。そこまで進むと、直人が振り返った。白地に騒々しい柄のスーツが、街灯の下でひどく目についた。「催事の結果、見たか」「見た」「あの館で、INUIはお前の常設店の三倍以上売った。次の施設からも話が来てる」「そうか」「周年記念まで、指をくわえて待ってるんだな。まあ、どれだけお前のところに客が来るか知らねぇが」 直人はネクタイを緩めながら、満足げな顔をしていた。 雪臣は、会議で聞いたINUIの催事結果を思い返す。 催事区画と常設店では、客を呼び込む条件が違う。それでも、INUIが新たな客を呼び、利益を上げたのは事実だ。HIMUROの方針を変える理由にはならないが、無視できる数字でもない。「お前の言うとおり、INUI Jewelryの企画は成功した」 雪臣がそう告げると、直人は一瞬目を見開いた。その視線が雪臣の顔から杖の先へ落ち、すぐに戻る。「……偉そうに上から評価してんじゃねぇよ」「どうでもいい」 直人の眉がぴくりと跳ねた。 雪臣が聞きたいのは、仕事の話ではない。「お前、さっきタマに何を言うつもりだった」「…&hell
HIMUROの会議室では、十一月末に開かれたシカクイ催事の報告が共有されていた。 「INUI Jewelryが中心となって開催した今回の催事は、予想以上の反響だったようです。これまで宝飾売場に足を運ばなかった層の来場も多かったように見えると、常設店の店長から報告を受けています」 瀬原の説明に合わせて、モニターの画面が切り替わる。アトリウムを埋める来場者の列からは、今回の催事がINUI主体だったことがひと目で分かった。その隣には、直人の写真を載せた簡易的な速報記事が映し出されている。 新たな価格帯の商品を前面に打ち出し、社長自ら再来店の予約を受け付けたという。記事の見出しからは、INUIの成功を疑う余地など感じられなかった。 ――直人さんが……。 実際、成功したのだと思う。珠希も、かつてあの会社で働いていた。催事の準備にどれほど人手がかかるかも、数字が出るまでは立場が下の者ほど気を抜けないことも知っている。だからこそ、すぐには信じられなかった。INUIが成功したことではない。あの直人が、自ら現場に立ったという事実を。 お客と向き合う直人の写真から目を離すまで、少し時間がかかった。 INUIに入社し、籍を入れたばかりの頃。珠希がデザインしたジュエリーを、直人は誇らしげに新たな看板シリーズとして打ち出した。売上が伸びれば、珠希も嬉しかった。けれど、いつからだったのだろう。珠希が直人の期待に応えようとするほど、彼の態度は冷え込んでいった。まだ数字が足りないのだろうか。やればやるほど、外へ向けて語られる成果だけが直人のものになり、その一方で、二人のあいだの壁は厚くなっていった。 ――その呼び方、やめろ。学生気分か。社長の嫁の自覚を持てよ。 なかなか子どもができず苛立っていた直人に、抱かれながら言われた言葉だった。『直くん』と呼ぶのをやめた。その後、妊活は人工授精へ進み、二人が触れ合うこともなくなった。 それでも珠希は、直人の隣に立っていた。彼を輝かせる飾りのように。 「INUI Jewelryの企画は成功した」 雪臣のストレートな発言に、数人が資料から目を離す。 「HIMUROは、それを知った上で予定どおり進めます」
十二月初旬。向かいのビルに灯りが増え始める頃、INUI本社最上階の社長室も、窓の外が暮れてもなお、明るく照らされていた。 机の上には、シカクイの催事報告書が三部。売上に加え、費用を差し引いた利益、再来店予約の件数、その後の問い合わせまで記されている。 秘書に数字を確認させ、直人自身も朝から二度読み返した資料だ。 父に何を問われても答えられる。紙束の角を揃え、直人は表紙に記されたINUI Jewelryの文字を指でなぞった。 「会長がオンライン会議に接続されました」 秘書が端末を操作すると、壁のモニターに父が映った。背後の窓には、漢江越しに広がるソウルの夜景があった。父は眼鏡を外して机に置き、画面越しにこちらを見た。 「それでは、失礼します」 秘書が席を外し、社長室の扉が静かに閉まる。密閉された室内には、空調の音だけが残った。 「早速ですが、催事の結果です。事前にメールで共有した資料は届いていますか」 「軽く目は通した」 直人は報告書の一枚目を開いた。数字を追いながら、限定仕様の価格を決めた経緯、販売員を配置した理由、当日の動きを順に説明していく。 その間に何度か父の表情をうかがったが、父は直人を見ることなく、膝に飛び乗ってきたシャムネコの背を慈しむように撫でていた。 途中で口を挟まれないうちに、用意した資料の説明を進めた。 「利益は目標を上回りました。館内の宝飾部門でも首位です。別の商業施設からも、商品展開について問い合わせが来ています。成功した、と断言できます」 父の視線が画面の下へ落ちた。手元の資料を見ているらしい。直人は膝の上の拳を開いた。 ――ならば結果で証明しろ。 あの日、家の居間で投げられた言葉に、ようやく答えられる。 「そうか」 父は資料から顔を上げた。 「それで?」 一拍、直人は声を失った。 「……それで、って」 「数字はこの資料に書いてある」 「…………」 「次の戦略がないなら時間の無駄だ。俺は暇ではない」 短く返すと、父は画面の外へ視線を移した。別の予定でも確認してい
十一月二十五日。 渋谷シカクイのメインアトリウムに、各社のブライダルジュエリーが並んでいた。ドレス店の展示を挟み、奥には写真館の相談席もある。客は一つの店で決めなくても、館内を回って品を比べられる。 「開店まで十分です」 秘書から報告を受け、直人はスマートフォンを取り出して時刻を確認する。その下に表示されていたメッセージに既読をつけて、端末を再びジャケットへ仕舞った。 ――直ちゃん、ファイトだよ! えいえいおー! ルリカからの応援だった。 今週、妊娠八か月に入ったルリカは、体調を優先して今回の催事には同行していない。今朝出発前にルリカを抱きしめたとき、大きくなった彼女の腹越しに感じた子どもの胎動を、直人ははっきりと覚えていた。 九月下旬、ルリカがつないだ縁を足掛かりに直人が臨んだ商談は、実施を見据えた協議へ進んだ。一歩前進したことに変わりはない。けれど直人にとっては、まだそれだけの小さな進歩だった。 その後、シカクイの担当者がINUIのショールームを訪れ、費用と参加店舗の調整を始めた。 ここからが、本当の戦いになるはずだった。 氷室の周年記念企画が始まる来年四月より前――三月までに企画をねじ込もうと、直人が各部長を動かし始めた十月一日。シカクイ側の上層部から、十一月下旬にフェアを開催できないかというオファーが入ったのだ。 ――いくらなんでも早すぎないか。 直人は秘書を通じて、シカクイ担当者に、会場と人員の確保が間に合うのか確かめた。冬の販促用に押さえていた枠を使える、館内の店舗にもこれから話を通す、という回答だった。もともと進行中だった類似企画に穴が開いたのか。しかし、類似企画が十一月に行われるといった内容は、シカクイ側の公式情報では告知されていなかった。 つまり、なぜそこまで急に話が進んだのか、納得しきれていないところがあった。 ただ、決まった日を変えられないなら、間に合わせるしかない。 ――できない理由はいらない! 間に合わせる根性を見せろ! 企画の確定から今日までの約二か月間、何度、社員を怒鳴りつけたか分からない。 珠希







